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太田一朗・房子さんインタビュー


1960年代のソーホーのスタジオビル

—どのような経緯でニューヨーク(以下NY)に来られたのですか?

I )1965年に、アメリカへの一般渡航が解禁されたことと、その時期にNYで「最大規模の万博」が始まっていたから、NYにすごく魅かれていたんだ、それで「よし、NYに行こう」と。当時の一般的な渡航手段は“船”だったんだ。愛知から神戸まで行って乗船し、そこから横浜まで行ってと、それだけですでに4日間を費やしたよ(笑)。それでようやくアメリカに向けて出発。21日間かけてロスに着いた。ロスに着いてからは、また3日間かけてバスでNYに向かった。ほぼ一ヶ月かけて、ニューヨークの地を踏んだ。

F )彼と出会った時は18歳でした。2年間待って、20歳のときに彼と同じような経過で船でロスまで行きました。ロスからNYまでは「絶対にバスには乗るな」と警告されていたので、飛行機でNYに行きました笑。ラガーディア空港で彼の迎えを待っていたのですが、いないんですよ。待ち続けるしかないので待っていたら、彼が現れてくれました。彼は間違えてJFK空港に行ってしまってて、気がついて慌ててラガーディアに駆けつけたそうです笑。

—渡航自体がまさに冒険ですね、日本を出発する時とか待っている間に不安とかはなかったのですか?

F)不安はなかったですね、信頼してましたから。それが全てだったので、離れている間は地元の教会に英会話を習いに行ったり、アメリカに行ったらこうしようあれを見たいとか、ワクワクして過ごしてました。特に両親からも反対されたわけでもなく、「自分がしたいことをすればいい」と応援してくれてました。

I )憧れの万博も2、3回足を運び、それからは仕事を始めた。いろんな仕事をしたよね。56丁目の「Benihana」1号店で働いたりして。その時にロッキー青木さんに出会った。ロッキーさん達も一家総出でみんな必死で働いていたね。2号店がオープンする時に、日本から来るはずだった大工さんのうち、ひとりが急遽来れなくなって、ピンチヒッターで大工仕事を手伝ったんだ。それがきっかけで大工の仕事を本格的始めたようなもんだね。今思い返せばそう思うだけで、その時はすでに子供も生まれて毎日が必死だったから、来る仕事はなんでも引き受けていた。自分にできなかったら、できる人材を見つけるのはそんなに難しいことではなかったよね、なんせ世界中からいろんなバックグラウンドを持った人々が集まっていたから。実戦でもまれながら大工修行をしていたようなもんだったけど、もともと日本で斫り(はつり)仕事の現場に出ていたからそんなに苦労したという覚えはないなあ。。大工の仕事をしているうちに、見様見真似を繰り返すうちに20年後にはオリジナル家具が作る出せるようになっていた。

—その時からソーホーに住んでいたんですか?

I ) 当時のソーホー地区には広くて大きいスペースがたくさんあったから、アーティストの制作場所にぴったりだったんだよ。今では信じられないぐらいリーズナブルなスタジオロフトを、日本に帰るアーティストの知り合いから譲り受け、1968年から住み始めた。1500sqfの広いフロアの一ヶ月の家賃が$125、1時間の時給が3〜4ドルの時代だったけど、ゆったりと暮らせた。illegal living(イリーガル・リビング)といって、住居のカテゴリーに適応できない建物に住み始めていた人が増えていた場所でもあったんだ。

( to be continued )

太田一朗さん(I)、房子さん(F)

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